#遙か3 #重望 前提の #知盛と望美 扇の骨
2006/07/17
扇の骨
敷地の隅に植えられた紫陽花。花の色は土が酸性かアルカリ性かで決まるのだったか。どちらが赤でどちらが青になるのだったか思い出せないが、此処では誰かに聞いて確かめる事も出来ない。
盆地特有の蒸し暑さに望美は辟易していたから、日陰で咲く紫陽花の見目の涼しさにつられ、裸足のまま庭に下りた。この、小さいけれども手入れの行き届いた住いで生活しているのは、望美を含めて片手で足りる人数だけだ。それ以外に顔をあわせるのは、通ってくる男、物好きなかたき、世話やきな幼なじみ。友人は来ない。通いの男が望美を何処に隠したか口を閉ざしているからだ。知盛がどこでこの場所を聞き付けたのかは知らない。将臣は知りたくもないのに知ってしまったというところだろう。あの幼なじみは、どうも厄介事を引き付ける嫌いがある。
先程の通り雨で湿った土が足裏に張りつくのも厭わず、望美は庭の端まで歩を進めた。
太陽の光を受けて木々を濡らした雨水は乾いてゆくが、今は日陰になっている紫陽花の近くはまだひんやりと冷たかった。風の通り道になっているようで、その場に座り込んだ望美の髪が煽られて枝に絡まった。汗で湿った髪が顔に張り付いてしまうし、視界は狭まるし、紫陽花を愛でようと思っただけなのにとんだ災難だ。風が吹いて涼しいのは良いけれど、髪を切って終わりにしようにも刃物は持っていないし、誰かを呼ぼうにも今日は皆出払っている。だからこそ咎められずに素足で此処まで来る事が出来たわけだが。
幸い時間はたっぷりとある。もう、仕方が無い。
望美は舌打ちして髪を梳くことに専念しようとしたが、人の気配を感じ振り向くと同時に懐から取り出した扇を振り抜く。
風を切る音がし、扇の骨が撓んだ。
「あんた、女の顔狙うだなんて何考えてるのよ、……この扇気に入ってたのに」
振り向いた先には予想通りの男が居た。鯉口は切られていないと言っても、鈍器で殴られたら死んでしまうではないか。扇は見るも無残な姿になってしまった。
「女?自分で言って滑稽だとは思わないのか。扇なんぞ、ねだれば幾らでも寄越すだろう、重衡が」
「うるさいなほっといてよ」
髪を木に絡ませたまま憤ったところで格好がつかないのは解かっているが、怒らずには居られない望美をひとしきり笑った後、知盛は小脇に抱えていた包みを望美に渡した。何が入っているかは知っているから、望美も中身の確認をしないまま部屋の中に放り投げる。
中身はいつも同じ。着物だ、男物の。
「手合わせしてほしいんなら梳いてよ」
「……我侭な姫君だ、着物の他に髪まで梳けと申されるのか」
「何が姫君よ、私があんたに女扱いされて無いのなんて分かってるんだからね。……あれ、なんかまた傷増えてない?」
髪を梳く為に近寄り、膝を付いた知盛の腕に見た事の無い傷が増えているのに気付いた望美が指摘すると、知盛は口角を上げた。その嬌笑からして、別の時空の自分が付けた傷だろうと望美は見当をつけた。
「ねぇ、まだ?」
「口のへらん奴だ」
手を動かす知盛にあわせて、着物の文様も揺れる。素直に、綺麗だなと望美は思った。
重衡が寄越す、四季折々の花が散らされ、意匠を懲らした着物は美しいと思う。けれども、袖を通す気にはなれないのだ。似合わないと思う。似合いたくないとも、似合ってしまってはいけないとも思う。まだ望美は剣を振るう気でいるのだから。
こんなにいい物はいらないから、安物でいい、男物の着物をくれないかと重衡に言ってみた事もあるが、悲しげな顔をされただけだった。手合せをしろと煩い知盛に、その代わりに私が着られる位の大きさで煌びやかじゃない着物を寄越せと言ったら、あっさり男物の着物を寄越したので、望美はそればかり着ている。あれから知盛は、望美の分の刀と男物の着物を持って此処までやって来る様になった。
重衡が来ると解っている日は、精一杯女らしい格好をするのだが、先触れも無しに来られると知盛に貰った着物のままだ。望美が纏う着物の送り主の見当は付いているだろうに、重衡は何も言わない。いっそ責めてくれたら良いのに。
「……解けた」
「ん、ありがとう」
髪は解け、望美は礼を言ったのに知盛は立ち上がろうとしない。怪訝に思っていると、突然襟に手を差し込まれる。驚いていると、着物の下に下げて見えないようにしていた逆鱗を引きずり出された。七色に煌く逆鱗を見る知盛の瞳には、常に無い熱さがある。
「もう使わないのならば寄越せ」
「あげれません。二つも持ってどうすんのよ。私のはまだ使う予定があるの」
「ならば、何時までこうしている心算だ」
何時まで、此処で安穏とした振りを。